LOGINその日の夕食は質素ながらも、アルクスで家族四人で暮らしていたころのように和やかで温かなものとなった。夕飯前のやりとりにより、リスルとヨルグの間には気まずいものがあったものの、はりきって食事を用意してくれたイルゼの気持ちを慮って、表面に出すことはなかった。
足先がくるりと渦を巻いた使い込まれたアンティーク調の椅子に腰を下ろし、同じ意匠のテーブルを三人で囲む。他愛もない老夫婦の会話に時折り、相槌を打ち、イルゼの昔ながらのシンプルだけれど奥行きを感じさせるシチューにリスルは舌鼓を打った。まろやかな乳の旨味の中、よく煮込まれた牛の肉が口の中でほろほろと解けていく。母親のアリエの料理とは味付けこそ異なるものの、口の中をから全身に染み渡っていく優しさは、紛れもなく、リスルが失ってしまった愛しく何気ない幸せな日常の味だった。 じわりと暖かいものが彼女の胸に込み上げてくる。せめて、自分を拾って看病してくれたこの老夫婦に何かしらの形で恩に報いたいと強く思った。食事とその後のささやかなティータイムを楽しんだ後、未だ傷が癒えきらないリスルは老夫婦よりも先に、貸してもらった部屋で休ませてもらうことにした。
ジーク司教に打ち据えられた傷や全身に負った火傷による痛みで寝付けない中、リスルの聴覚は階下での老夫婦の会話を捉えた。何となくぶっきらぼうなところがあるヨルグが妻を問いただす声は真摯であるが故に冷たく響いた。 「わしはあの娘の勝手な妄想だと信じたい。だが……イルゼ、最近体調が悪いと言ったことはないか?」 「そうですね……たまにお腹の辺りが痛む気がしますが、そんなこと、私たちのような歳にもなればよくあることでしょう? そう気にすることはないと思いますよ」 「そうか……」 それではあなたおやすみなさい、と寝室へ消えて行く妻の背中をヨルグは思案気に見送った。その後ろ姿は、夕方リスルに聞かされた話の影響か、記憶の中にあるものよりも遥かに弱々しく頼りなげに映った。 老夫妻が寝静まった後、眠れずにいたリスルは物音を立てないように細心の注意を払いながら、充てがわれた客間を抜け出し、階下へと降りた。彼女は、まだふらつく身体を引きずりながらリビングダイニングを抜け、老夫婦の寝室へと忍び込んだ。 イルゼの病――本人は強がっているが、あれはそう遠くない未来に死に至る病であると、リスルは確信していた。瀕死の小鳥を救ったときのように、自分の中にあるあの力を持ってすれば、彼女のためにできることがきっとあると感じていた。 彼女はイルゼの寝台にそっと近づいた。昼間のあれはやはり空元気だったのだろう。ヨルグに聞こえないように声は抑えているが、苦しそうに呻いている。 「……イルゼさん」 彼女が小さな声で名を呼ぶと、イルゼは苦しみに顔を歪めながらもこちらを見た。 「ロゼ……?」 イルゼは消え入りそうな声でリスルの偽りの名を呼んだ。リスルは真摯な声で彼女へと問いかける。 「イルゼさん……ヨルグさんには隠しているつもりのようですが、身体、相当お辛いですよね」 「……!」 この場において、沈黙はリスルの言葉が真実であることを示していた。 「イルゼさん。よく聞いてください。わたしに身を委ねてはくれませんか。わたしならきっと、あなたの病気を治せると思います」 「ロゼ……あんた、もしかして……」 はっとしたように、イルゼはアイスブルーの目を見開いた。 もしかしてアルクスを火の海と化したという『魔女』ではないのか。一抹の疑念と不安に駆られ、そう言いかけたイルゼの言葉をリスルは遮る。 「イルゼさん……今、わたしの素性について詳らかにすることはできません。わたしはどこの誰とも知らないわたしを拾い、看病してくださったそのご恩にただ、報いたいだけなんです」 リスルの真摯だけれどどこか縋るようなグリーンの双眸に、わかったよと躊躇いながらもイルゼは頷いた。 「ありがとうございます……イルゼさん。こんな素性もろくに知れない小娘の言葉なんて信用できなくて当たり前だというのに……」 リスルは寝台に横たわる老女に礼の言葉を述べた。すると、イルゼは口元に苦笑を浮かべ、 「まあ、体が悪いのは事実だからね。ところで、治すって言ったってどうするんだい? あの人に隠れて医者に診てもらったことがあるんだけど、もうどうしようもないって言われているんだ」 「それなんですが……これから少しお腹の辺りを触らせていただいてもよろしいでしょうか?」 「ああ」 イルゼは承諾の意を示した。リスルは自分の手に意識を集中させると、寝巻き越しに老女の腹部に触れた。リスルの茶色の巻毛は朝焼けのような赤色を纏って波打ち、グリーンであったはずの双眸にも同様の色が灯る。イルゼの腹部にあてがった手のひらを淡く優しい光が包んだ。自分の異能を意図的に使用しての初めての本格的な対処となるが、そんなことに怯んではいられない。自分のやろうとしていることが、人ならざるものの領域に踏み込む恐ろしい行為だという自覚はあったが、引き下がる気にはなれなかった。 小鳥の傷を癒やしたときと同じように、目の前の命を救いたいということだけを考える。イルゼの体内の病巣が小さくなり、なくなっていく様を脳裏に思い描く。 「あ……」 イルゼの唇から声が漏れる。苦悶に歪んでいたはずの顔には穏やかな表情が浮かんでいる。 (よかった……うまくいったみたい……) 癒やしの光がリスルの手のひらから消え、髪と瞳の色が元に戻っていく。リスルはイルゼの腹から手を離した。 「イルゼさん。まだ痛みますか?」 リスルが問うと、イルゼは驚愕に目を見開きながら、 「ありがとうよ、こんなに身体が楽なのはいつぶりだろうね。しかし、ロゼ……あんたはやっぱり……」 「……聞かないでください。お願いします」 「……そうかい」 イルゼは深く追及することはなかった。 リスルは急速にひどい倦怠感が全身に広がっていくのを感じた。一気に何歳も老け込んでしまったかのように、体の感覚がぎこちなく、思うように動かせない。これが、生命に干渉するあの力を行使する代償なのかとリスルは悟った。生まれ持ったあの能力を使ったときも多少の疲労を感じるが、これはその比ではない。気力や体力を消耗するというよりは、リスル自身の持つ生命力そのものが削られてしまったような感じがする。 リスルは重くてだるい身体を引きずりながらあてがわれた部屋へと戻った。部屋に入った途端、緊張の糸が切れたのか、目の前が真っ暗になり、身体が傾いだ。 リスルは少し休むと、足音を殺して再び階下へ降りる。簡単に羊皮紙に今までの礼と別れの挨拶を書き綴ると、ダイニングテーブルの上に置き、リスルはそっと宵闇の中へ姿を消した。翌朝、リスルの置き手紙を目にし、朝食もそこそこに老夫妻は頭を抱えていた。イルゼの体調は昨日までが嘘であったかのように軽快していた。
イルゼは昨夜、自分の病を治すために謎の術を行使した際のリスルの姿を目にしていた。それは近くのアルクスの街の大火の原因となったという『魔女』の容貌に酷似していた。 昼過ぎに、アルクスの事件の後処理のために派遣された教会の神聖騎士団の一部隊がメーレ村を訪れた。ヨルグとイルゼは彼らに話を聞かれることとなったが、二人は思うところがあって、赤い髪と瞳を持つ『魔女』については知らぬ存ぜぬを貫き通し、口を割ることはなかった。もし彼女がアルクスの惨劇を引き起こした『魔女』と同一人物であったとしても、夜中に彼女と会話を交わしたイルゼはあの娘は何の理由もなく町一つを焼き払ったりなどしないだろうと確信していた。彼女自身が望んでここを離れた以上、きっともう二度と会うことはないだろうけれど、それでも彼女が教会にその身を脅かされることなく、どうか普通の少女として生きていってほしいと二人は願った。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?